今日、コレです。
你有没有机会去中国?
nǐ yǒu méi yǒu jī huì qù zhōng guó ?
解りますよね?私も、解ります。何不自由なく解ります。
このフレーズは連動文(連述文)です。私独自の連動文(連述文)理論「前か後かどちらかが主眼であり、他はカザリ。」でいくと、話し手が言いたい主眼は、「你有没有机会?」だと思います。じゃあ、去中国は何なのか?主眼じゃないからカザリです。カザリ方法は実に多様なので一言では表現出来ないですが、このフレーズの場合だと、付け足し的なカザリとでも言うかな?あまりやらない方が良いのですが、全部日本語で表現すると、「あなたは機会が有りますか?(中国へ行く。)」という構造です。このフレーズを読んだ時の私の頭の中は、完全にこの構造になってます。意味もこれで十分解ります。とりあえず、これでスッキリです。完全に把握したつもりでいたのですが。。。
ただ、学習を始めると解らなくなる。
連動文は動作の発生順に並ぶのが掟です。並び替えることは出来ない。この例文だと「有机会」して、それから「去中国」のハズなんです。従って、発生が後の「去中国」が主眼のハズです。(例文が疑問文なので少しヤヤコシクなってしまったが。。。)
この例文の場合、去中国?が主眼だと考えて、全部日本語で表現すると、「あなたは(機会が有って、)中国に行きますか?」とでもなるのか。。。???かなり無理。
どう考えても「有没有机会?」が主眼です。矛盾です。連動文は発生順だから、後ろが主眼になるのでは無かろうか???なぜ発生順が前の「有没有机会?」が主眼になり得るのか? この矛盾について、少し考えました。そもそもこの「有」文というのは、どの文法書でも例外扱いされてる特別な文です。「有」自体、その意味的に動作でも無ければ行為でもない。そのような部分で別枠扱いされてるのだろうか???
かといって、連動文の発生順の掟が守られてないのか?というと成り立ってる。「有机会」して「去中国」してる。「去中国」して「有机会」してるワケじゃない。中国語の鉄の掟は守られているのです。では、発生が先の動作行為が主眼になり、発生が後の動作行為がカザリになることがあり得るのだろうか?
ヒマな私は、いくつかの連動文について、前が主眼なのか後が主眼なのか調査してみました。結果、前を主眼と取るしかないフレーズは、いくつか有りました。多くは無いですが。両方取れるパターンも有ります。意味によって、主眼の前後が変わってきます。主眼を太赤字で表現すると各々日本語訳は次のようになります。原文→日本語訳(原文を残しつつ)→本当に日本語だけの訳のかたちで書きます。
1.我去超市买东西。wǒ qù chaō shì mǎi dōng xī 。
・我去超市买东西。→(去超市して)买东西した。→(市場に行って)買い物をした。
・我去超市买东西。→去超市した。(买东西。)→市場に行きました。(買い物しに。)
2.他去借书。tā qù jiè shū 。
・他去借书。→(去して)借书した。→(行って)本を借りた。
・他去借书。→去した。(借书。)→行きました。(本を借りに。)
3.有饭吃。yǒu fàn chī 。
「有」文です。
・有饭吃。→(有饭で)吃した。→(ご飯が有って)食べました。★このパターン少ないと思います。
・有饭吃。→有饭です。(吃。)→ご飯が有ります。(食べる。)
4.这儿没有人学汉语。
このフレーズ、後主眼は考え難いです。私が連動文と区別する必要無しと判断した兼語文です。
・这儿没有人学汉语。→没有人です。(学汉语。)→人は居ません。(中国語を学ぶ。)
5.爸爸不让我看漫画。bà ba bù ràng wǒ kàn màn huà 。
この辺りになると、後主眼と考えるのは、もはや不可能。兼語文です。
・爸爸不让我看漫画。→不让我しました。(看漫画。)→私にさせません。(マンガを見る。)
整理して、解り易くしようとしたのですがムダでした。
ルールによって、主眼が、前なのか後ろなのか確定しようとすると、かなり複雑なルールが発生する。その複雑なルールに更に枝葉のルールが発生する。単純に言うとムチャクチャになるのです。
考えない方が良いと思いました。聞いたフレーズ、読んだフレーズをそのまま聞いて、どこが主眼なのか直感で見抜く。。。ルールを作るとするとこれくらいかなあ。。。
ルールはシンプルじゃなきゃダメです。実際、使えないです。赤は止まる。青は進む。くらいじゃないと、現実からかけ離れた架空のルールになってしまう。六法全書を作るとか、設計図を作るとかなら別なんでしょうが、私は知らない世界なので。。。
終わります。
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