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中国語ってカンタンなんですか?

我住在东京。
私は東京に住んでいる。
まだ、それやってるの?って感じですが、見えてきた感じがあるので今日も書きます。

 まず、いろいろ書いてるが、じゃあ、私は、 我住在东京。 と喋ってないのか?と問われると、 喋ってます。~に住んでる=住在~ で。前置詞が後ろに来てるだけのイメージで。実際は喋ってる。そういう言い方をするものだと自分に言い聞かせて、慣れだけで。放在这里。我送给你。还给我。と言ってます。ただ、常に疑問に思ってた。 その疑問を解きたいだけ。納得できない。「執念ヤノ~。」誰かが言ってる。その疑問を解きたいだけ。なのだが、 調べる程、迷路。
 解らないまま方式で丸覚えでも良いかもしれない。イヤその方が良い。と思えてくる。

 スッキリしない原因は何なんだろう? 東京に住んでいる。は、どう考えても住の方が強いのに、在の方が強いと考えなければならない?住んで、東京に落ち着いたとイメージしなければならないの?読むときはなんとかなるが、喋る時、果たしてそんな事が可能なのか?無理でしょう?
 「住在」 素直に「住」の方が強いと考えるべきなんじゃないの?結果補語「吃饱」は [お腹いっぱい。」の 「饱」の 方が強い。これは確かだ。一般に結果補語は、後ろの補語の方が強い。しかし、前置詞とも考えられる在、到、给 などが補語位置にある場合は、逆に前の方が強いと考えるべきではなかろうか。普通の前置詞と同様に飾りの役割をしていて、その為 前の方が強いのだ。本来の補語のその名前通りの役割をしているとも言える。

 今迄、結果補語は後ろが強いと、私は一律に考えていたが、「オイ!その考え方は危険だゾ。」と自分に言いたい。 後ろが強いパターンが大部分ではあるが、在、到、给のように、前が強いパターンもある。混在しているという事。
 じゃあ、同じ飾りの役割なのに、ワザワザ前置詞位置と補語位置に使い分ける意味は?その違いは? 時間の流れだけです。発生の順番です。前置詞位置の在は、住が発生する以前の在。補語位置の在は住が発生した後の在。両方飾りであることに変わりはない。連動文の語順は 発生した順とハッキリ決まっている。継起性という。つまり、前置詞は動詞なので 継起性に従わなければならない。それで飾りである前置詞が、主眼の述語の後ろに位置する現象が起こる。前置詞構文+述語 及び述語+前置詞構文は、連動文=連述文であることの証である。
 じゃあ、意味的な違いは? 『結果補語「在」は、なかなか難しいですが、動作してそのまま落ち着くことなら「動詞+在」を使いましょう。』という記事を発見した。真実を突いてる。つまり動作してそのまま落ち着いてるかどうか解らない場合は、「在+動詞」という事。 我住在东京。 には「東京に住んでそのまま落ち着いている。」という意味があるという事。本日の結論はこれです。

 前置詞というコトバ について少し書きます。前置詞は連述語飾りであるという私の考えに変わりは有りません。変わりは無いですが、イチイチ連述語飾りと言う表現を使うより前置詞と言った方が、便利です。今後使っていきたいと思う。「前置詞が補語になってる(補語の位置にある。)」という説も、今迄完全否定してきた私だが、今は当たってると感じてます。
 
 もうひとつ結果補語というコトバについて少し書きます。 主眼の役割なのに補語というコトバが付いてる。初学者を迷路に送る言葉だが、結果というコトバも同様だと私は感じる。結果とかいうからややこしい。時ですヨ!時間的にその結果と呼んでる述語がもう一つの述語の前に発生しているのか、後に発生しているのかの違いです。後に発生している述語が「結果」という表現になってるのだと思います。結果補語というコトバは「後に発生している補語」と言える。実際には「後に発生している主眼」の場合もある。
 中国語は「てにをは」が無い上に述語に時制の活用がないので、物事が起こった順にしゃべるという鉄の掟だけが、ふたつの述語の時間的関係を表現する唯一の方法です。「天山山脈に生える高山植物です。」という為には、発生順に述語を並べて絵本のように発生順に一枚一枚めくって、過去→現在→未来と説明する方法しか無いのです。つまり生长在天山山脉と写実的に述語をひとつひとつ並べるしか表現方法がないのです。日本人にとって中国語が難しいのは、このあたりです。「てにをは」も時制の活用も使ってない中国語。この部分が最大の難関で理解できない部分なんです。

 中国語はカンタンなのか?難しいのか? 「てにをは」無しで、時制の活用も無し、で単語の羅列だけで日本語を喋れますか?唯一使える方法は語順だけです。それが中国語です。難しいに決まってる。簡単なんて何処の誰が言ってるのですか?
今日、終わります。

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