都内某所、所要があり私はメトロのある駅を降りた。12時です。とりあえず何か食べないとという事で過去一度だけ入ったことのある一件の定食屋を探しあてて入りました。過去ここに来たのは、場所も忘れるくらい以前の話なので店のルールも完全に忘れている。記憶をたどりながらの作業になる。おかずがズラリと並べてある。これを勝手にとるハズ。2皿とってウロウロしてると、お店の人が何やら指さしている。お盆がある。ハハー、これに載せるのか。のせてまたウロウロしてると何も言わないのに、お店の人はご飯を注ぎ味噌汁を注いでる。私のためのものなのかどうかハッキリしないが、周りに人も居ないのでそれをおぼんに取りました。どうやら私用のごはんと味噌汁で正解だったようだ。ハシが無い。また店内をウロウロするが誰も声をかけてくれない。仕方ないので「ハシはどこですか?」お店のひとは入り口の方を指さす。見ると割りばしの束が置いてある。その一つをとろうとしていると、お店の人は再度、なにやら指さしている。私のおぼんである。よく見るとおぼんと同色のハシがいつの間にか置かれていた。おぼんは私がずっと持ってました。いったいいつの間にハシを載せたのだろう?どうでもいいけどナゼこのお店の人は言葉をしゃべらないのだろう?たしか以前来たときは、上品な女の人がお店にいて、やり方を全部教えてくれたのだが。。。一皿は、サバの南蛮ずけ風。もう一皿は肉じゃが風。美味い。衝撃を受けたのは、お勘定。カードもSUICAもダメだそうで、仕方ないので1万円出しました。おつり を受け取り店を出たところで私は立ちどまる。おつり間違ってない?確認すると千円札が9枚、500円ダマがひとつ。500エン!?ウソでしょ?大阪だってこんな店無いですよ。(ちかい店はあるが。。)もひとつ不思議なのは、ナゼこの一番忙しい時間帯で店内ガラガラなのだろう?この辺りの人はこの店に来ないで一体どこで昼ご飯を食べてるのだろう?もし家の近くにこの店があったら365日通いますよ!引っ越したいくらいです。今度この近くに来たら絶対くるぞ!今度来たら気になってた一皿赤ウインナーと目玉焼きのセットを食べるんだ!やっぱりウインナーは赤くないと!あの合成着色料で色のついた、体に有害そうなあの赤じゃないとイケナイ。今月30日昼12時。必ず行くぞ!エッどこかって?それは秘密です。混んではいけないので。
学習記を書きます。気になったフレーズ二つ書きます。
因该把垃圾放在袋子里,然后扔掉。
yīn gāi bǎ lā jī fàng zài dài zǐ lǐ , rán hòu rēng diào 。
我踩在香蕉皮上,摔倒了。
wǒ cǎi zài xiāng jiāo pí shàng , shuāi dǎo le 。
この辺りどうでしょうか?
1)上記二つの例文の 在 は介詞(前置詞)ではない。介詞フレーズとは、「動詞の連用修飾となり、動詞の前に位置するもの。」なので、介詞ではない。
2)イヤ、この 在 は介詞で、介詞が補語になっているという説もある。
3)私としては、補語という言葉を中国語文法から無くそうとしている部分がある。本当に補語の役割をしているなら良いのですが、補語どころか文章の主眼になっている文が多いのです。補語どころか文章の核心の部分だったりするわけで、それを補語と呼ぶのはあまりにも狂ってて、全くおかしな事なのです。ただ、補語の位置にある介詞という事なら納得できます。補語の位置=動詞の直後 という意味です。
4)私としては、これ介詞ではないと思います。世の中で誰も言ってない、私だけの空想の物語を書きます。 在 は、人間が狩猟生活をしていた遥か昔、もともとの動詞で【在る】という概念のみで、介詞などというコトバは無かった。 言葉が発達してくると、動詞を重ねる形、連動文が使われ始めた。在家里~。在外面 ~。 これ便利です。連動文の前か後ろの動詞は修飾なワケですが、頻繁に登場する 前:修飾 後ろ:主眼 の形で使われる 前:修飾 が本来の動詞の意味が薄れ、介詞という概念になった。もともとが連動文なので、 後ろ:修飾 のパターンもあるわけで、” 踩在香蕉皮上”という文が現在残っていたとしてもなんの不思議もない。動詞を二つ繋げると話すのに便利だなあ。。という事から始まったわけで、後から出てきたコトバである介詞について、介詞だとか、イヤ介詞じゃないとか言い合うのは、もうセンスがないワケで。介詞というコトバを最初に付けた人に聞けばいいわけですが、多分もう生きてないのでなんなら介詞というコトバの定義を変えればいいだけです。文法なんて所詮、現実に使われてる言葉の法則性を探し出して後付けで作ったものです。文法よりコトバのほうが先なのです。そういう意味で「言葉にナゼは無い!みんなそう言ってるから、そう言う。習うより慣れろ!」という理屈はある意味、真実を突いている。でも~ !理屈が欲しいのです私は。というワケで、私がかんがえたのが、介詞というコトバも無いし、補語というコトバも無い。述語が重なった連述文という文法です。連述文では前の述語か後の述語のどちらかが、主眼です。残りの述語は飾り(修飾語)です。これ、考えてみると、文法とか整備されてきた歴史からすると逆行してます。研究して研究して生み出された介詞と言うコトバを不要だと言ってます。研究して研究して作り出された補語という理屈を完全に否定してます。言葉の文法研究の歴史を逆行した理論が連述文です。単なる述語を重ねた文という事です。でも、これが始まりだと思います。介詞も要らないし補語も要らない。単なる述語を重ねた文です。介詞だの補語だの言ってる言語学というのは、言えば言うだけ矛盾が発生してくる。結論を言うと、述語が重なった文。前の述語か後の述語が主眼(話者の言いたい事。)というこのかなり原始的な理屈になる。つまりこの世で私だけが云い張ってる連述文です。文頭であげた二つの例文ですが、 在 は、介詞でもなければ補語でもない。単なる連述文です。補語は主眼であると言い張ってきた私ですが、補語が主眼だとか、前置詞は飾りだとかは単なる大部分の説明であって、実際は会話の流れに依って前が主眼で在ったり後ろが主眼であったりするのではなかろうか?上記二つの例文は、どう考えても前が主眼のような気がして、補語の位置=主眼と言い張ってきた私の理論に合わない。
この件、尾を引きそうです。
絵ですか?貼ろうと思ってかなり時間を費やしましたが、やり方が解りません。
疲れたので終わります。
コメント