何をしようが本当はムダな時間なんて無いのですが、昔から思ってたのは、テレビを見ている時間って、つくずく無駄だなあという事です。これが見たいとか目的があってみるのはイイと思うのですが、時間をつぶす為だけに漠然とテレビを見てるのはムダです。しかも見てる時間の半分近くは、コマーシャルで同じコマーシャルばかり見てる。なんてムダなのだろうとは、思うがついクセのようにつけてしまう。最近の若い人達は賢くて、テレビなんか見ない。私も今日テレビを消しました。自分の時間が出来てなかなか良いのですが、テレビを見ないとネットしか見るものが無い。ネットばかり見ていると、見る記事の傾向は同じで、以前ブログにも書きましたが、私と同じ広島出身で殺害されたホームレスの女性の記事にあたってしまいました。再度読んで再度暗~い気持ちになってしまいました。読み返して何が一番私を落ち込ませたのか?彼女の死後の所持金は8円だったという部分です。5円が1枚と1円が3枚と書いてありました。今8円で買えるものなど存在しません。8円なんて現在もうお金じゃないのです。それでも彼女は最後まで持っていたのです。お金だから最後まで持っていたのでしょう。使えないお金を。記事には、彼女がアメリカの親戚を訪ねて訪米した時の、真っ赤なドレスで胸にバラを指した写真がありました。陽気なお笑いのテレビでもみておけば良かった。
暗い気持ちになりましたが学習記を書きます。私の学習記は彼女の8円に近いものがあるなあ。。なんの役にも立たないが捨てられない。
緊縮文はまだ書きたいところなのですが、休みます。あまりに不評なので。ただ、気分的にあまりノッてないので軽く書きます。
中国語に触れていてなんかおかしいと感じたのは、”请”です。”请”は=pleaseだという記事を見たことがありますが、pleaseは副詞です。でも”请”は動詞としか辞書には書いてない。中国語辞書に「副詞」と書いてあればまだ多少は納得できるかも知れないが、動詞としか書いてないです。この時点で、”请”=pleaseの説明は成り立ちません。意味的には同じ”どうぞ”ですが、品詞が違います。日本語ではどうか?国語辞典を引いてみました。やはり、副詞になってます。つまり日本語の”どうぞ”も英語と同様に”请”=”どうぞ”は成り立たないのです。品詞が違うから。3か国同様に”どうぞ”の意味合いで使われてる、”please”、”どうぞ”、”请”ですが、そのセンテンスの構造は違います。品詞が違うから。
这边儿请。というフレーズに出会いました。日本語訳は「こちらへどうぞ。」となってました。 分析します。这边儿 はもう問題ないですよね?主語です。話題=一番言いたい事=主語なので、主語の位置=文章のアタマの部分 に来るわけです。次の”请”ですが、この分析する前に言っておきたいのはこの”please”、”どうぞ”、”请”の3か国語で共通して言えるのは、3か国ともこの1単語を発声するだけでその時の状況で、意味が通じるという事です。もうひとつ言えるのは、3か国とも後ろに何らかの述語が隠れてるというか、省略されてるという事。”どうぞ”というコトバの意味合いが原因で、グローバル的に、自然と後ろの述語が省略されるコトバなのだと思う。”どうぞ”とだけ言える場面で、相手が”ハア?何を?”と聞かれる場面は想像しにくい。これは全地球的に共通である。意味が同じ、後ろの述語が省略されてるという共通点はありますが、唯一違うのが、品詞です、センテンスの構造です。英語&日本語の場合:副詞+述語の構造ですが、中国語の場合:述語+述語です。つまり世界中で私だけが主張している連述文です。連述文とは、どちらかかの述語が主眼でもう一方の述語は修飾の役割をします。这边儿请。の私の分析はこうです。这边儿=主語 + 请=述語(修飾)+ 省略された述語(主眼)だから英語だとか日本語の副詞と同じ意味を動詞でありながら共有できるのです。
”请”には意味的にも”please”、”どうぞ”とかの副詞とは違った、動詞的な求めるとか頼むとかの意味が含まれているような気がします。・请坐。 ・请安静。などです。
またユーザーが減る退屈な記事を書いてしまった。。。
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