暖房から、次の日はイキナリ冷房が必要になるのだろうと予想していたのですが、雨のせいで冷房は必要ない。暖房こそ入れてないが、暖房のマットだけはonにしてます。これに横になるとアウト。
ワクチン接種、申し込みが殺到しているようだ。不公平だとか不満まで出ている。ニューヨークまで行って打ったひともいる。あらためて感じた。ワクチンを打ちたい人は多いんだ。。65歳以上の年配の人が優先だから、ネットの世界と無縁な方が多い。区役所迄行くと、役所のひとに口頭で伝えれば、ネット予約してくれるサービスも始まってる。う~ん。。どうなんだろう?なんか旨く言えないのですが、例えば八百屋に大根を買いに行った。大根は目の前にある。でも「おじさんこれ下さい。」では買えない。スマホでネット注文しなければ買えない。とまあ現実にはあり得ない話ですが、なんかこのような類の話に私には聞こえる。手段が目的にすり替わり 笑い話のようなことが、現実になってる。生活を便利にするためにネットが生まれた。ネットで買い物ができる。ワザワザ行かなくても買える。配達までしてくれる。こんな便利な、そのネットが年配の人々にとっては不便になってる。ネットという手段が本来の目的を超えちゃって、もはや手段が目的に変わってるというか。。年配のひとには、どこかの市がやったように日付けと時間を指定して知らせるだけのほうが良いような気がする。役所に行ってネットで代わりに申し込んでもらうとかより、指定された時刻に指定場所に行くだけでワクチン接種が出来る。やらなければいけないのは、時間の都合をつけるだけ。打ちたくない人は、行かないだけ。エッ?ワタシ?私の場合はネット申請のほうが有難い。いつでもどこでも申請できるし、ある程度こっちの希望も言えるだろうし。ただなあ。イヤなのです。注射が。得体のしれないものが体内に入れられるのが。でも世間体もあるし、私だけ打たないと言い張るわけにもいかないし。宿題にしときます。
この日、私は中国出張の初日だった。ある工場に着くと、とりあえず工場内をぶらりと一周する。変わった様子がないか嗅覚をはたらかすのです。諸々の問題、悩みをいったん切り離して無心になってただ眺めてくる。2回のスペースにキバタの山がある、尋常ではない量です。キバタとは、編み立てただけの染色も洗いもなにもしてない状態の生地の原料です。山のハシからハシ迄歩いても結構な距離がある。工場の営業の営業担当に 聞かなければいいのに私は聞いてしまった。「あのキバタの山は何?」と他人事のように聞いた。担当者は、答えにくそうに、「あれが今、社長の一番の悩みなんですよ。。」話を聞いているとどうも原因は、わが社に由来するようだ。そういえば前回、課長とその工場を訪問した時「この製品1か月で何枚出来る?エ~全然足りないじゃないかあ!」課長が豪語していたのを思い出してきた。焦った工場は生地を先行させた。このような操作は業界では一般的なことであり、すべて口約束です。社長のとった行動は正しい。正しいのだが具体的な発注明細書が出ない。(弊社的にいうと、出せてない。)当然生地MAKERは早く引き取れと文句を言う。工場の社長は仕方なく、キバタを引き取ったのである。通常、縫製工場にキバタなんか置いてない。完成した生地ならある。原因は、アジアの虎と言われた(自称)我が社の課長だった。この情報を嗅ぎつけた他部署の営業が、「俺に任せておけ!と名乗り出た。」「そのキバタ俺が全部潰す!」どちらかというと、工場に恩を売りたい男気の性格である。工場は、あー助かったと思ったに違いない。あとで聞いた話だが、最終的にキバタの量は2倍に増えたそうだ。うちの会社、虎が多すぎる。
学習記書きます。書きますが何を書くか?学習記以外はわりとスンナリ書いてしまうのだが。。。こんな時はあまり良い学習記が書けない。
没有一样是日本制造的。たしか、こんな文章に以前、出会った。ずいぶん長い間、疑問として残っていた。私の中では、一样=形容詞:同じ の意味しか知らない。辞書で調べても一样=形容詞:同じ、同じである。としか書いてない。意味だけを優先して強引に日本語訳を推測すると「同様に無い。」くらいしか考えられない。考えられないのだが、形容詞:一样が連用修飾するためには、一样没有。とならなるハズ!形容詞が述語「没有」の後に位置して連用修飾出来るとなると私の頭の中にある中国語文法というものが根底から否定され、わけが解らなくなる。無いではないです。動量補語とか。。例えば、我去过中国很多次。とか有るのはあります。私の得意な連述文ですか?述語が重なる場合、どちらかが主眼で他の述語は修飾語になる。と考えると、成り立つわけだが 私の連述文は正しい語順の中国語を分析するものであり、語順を決めるためのものではない。理屈はどうでも良くなってきた。とにかくこの文章 私にとって不自然なのです。日本語訳といっても意訳的な訳ですが、「日本製のものは一つも無かった。」となっていたと思う。「同様に」とか「同じく」とかのニュアンスは訳のなかに無い。辞書を再度ひいてみる。形容詞の他に「数詞+量子」とある。样を辞書でひくと量詞:種類の数をかぞえる。とある。この一样は「数詞+量子」だったのだ。つまり没有一个是日本制造的。と量詞をかえても意味は大体同じという事なのです。この件、調べる期間が長かったです。この件いろいろ調べてはいたのですが、今日見つけたのは 「一样东西和一个东西是一样吗?」の質問です。hi nativeという「教えてgooの」ような記事で見つけました。回答は、「一样东西、一个东西意思是一样的。」となってました。どうやら私と同様の疑問を持っていた人がいたようだ。私の結論も正解のようだ。質問の内容の詳細は「今天我的课文上写着 “我劝我的朋友在网上购物, 省得为一样东西多跑几个商店” 然候我就不明白了, 问老师是什么意思, 她说这个词的意思是 ‘省得去几个商店找一样的东西’。 但是我觉得怪怪的, 所以就问你们一下, 谢谢了。」というものだった。
内容的に足りないなあ。。もひとつ書きます。会不会?出来るかできないか? この辺りは自然に入ってくるのです。英語の=can のイメージで非常になじみやすい。でも工場のリラックスルームでビールを飲んで、晩御飯を食べて、休みながら台湾人どうしの話を聞いていると、口癖なのか、やたら「不会」を連発するひとが居る。名前は张さん。「出来ない。」のつもりで聞くとどうも入ってこない。話の流れからしてどう考えても「あり得ない。」と言ってると感じる。それ以外推測できない。どんな話の流れだったか忘れましたが、「だれだれさんが~した。」とかそんな流れの話ばかりだったと思う。イキナリ张さんは「出来ない。出来ない。」と口をはさんでくる。どうも感覚的に不自然なのです。今、私は学習しているので、いろいろ調べると「あり得ない。」の意味がある。いつも聞いていた「不会。不会。」は、そういう意味だったのか。。。
台湾では、谢谢。 に対して不会。と返すこともあるなあ。
今日はこのへんで。。。
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