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学習記:結果補語 私の持論が根底から崩れてきたんですけど。。。

 最近、あることにハマってしまい、忙しくてブログの間隔が開いてしましました。
極力、間隔が開かない様にマイペースで書きたいと思います。続けることが大切。
関係ない絵ですが、画像処理が苦手なので、練習の意味で、久々に貼ってみました。たわわに実るとは、この絵のような状態ですね。これ、畑でも何でもないです。一般家庭の玄関横に植えてあるみかんの木です。夜とかここを通ると、今度はハサミを用意しておいて、2~3個だけ貰おうかと思ってます。
¥200くらい枝に吊るしておけば許されるでしょう。。。

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 最近、感じた件なのですが。。。

「买到」は、結果補語なので、私が過去ブログに書いてきたリクツで考えると「到」は、補足説明なんかじゃなくて、主眼でなければならない。会話の中でも「到了。」だけの省略形は頻繁に有ります。だから、確実に主眼なハズなんです。果たしてそうなのか、今、少し疑問に感じてます。もし、「到」が主眼なら、日本語にすると「買う」という補足的動作を省略して「手に入れた。」という訳になるハズです。まあ、この訳だと買って手に入れたのか、盗んで手に入れたのか不明ですが。。。現実的には、日本語では「買った。」と訳されます。 日本語的に考えると、主眼は「买」です。「手に入れた。」の意味の「到」が、ちゃんと補語(補足)の役割をしている???一般的補語の説明通りになってます。なんか私の補語に対する今までのブログが、根底から崩れてきたんですけど。。。
 「一般に補語と言われてるモノは、補語の役割なんかしてないし、逆に主眼だ!」というのが、私の持論です。例えば、「吃饱」コレは、日本語の場合「お腹いっぱい」だから、「饱」が主眼で「吃」は補語というか、補足的な動作です。この例だと、補語「饱」は、補語の役割なんかしてないし、逆に主眼です。私の持論の「一般に補語と言われてるモノは、補語の役割なんかしてないし、逆に主眼だ!」のリクツが成り立つ。 結果補語の補語は主眼になったり、補語(補足説明)になったりバラバラなのか? 一体どうなってるのか??? 私の持論を覆しそうな展開です。 でもこれ発見かも知れない! 補語と呼ばれる集団の中の一部分はちゃんと、補語の役割をしているものがあるという事だ。この補語というヤツは一体どうなってるんだろう?

 確かに、日本語の意味を無視して、この中国語述語パーツだけを切り取って考えれば、結果補語の一般的説明「動作+補語(補足説明)」の構成は、必ず成り立っている。日本語に訳すから、一体どっちが主眼でどっちが補語(補足説明)なんだ???となる。
1)「买到」は、「买」して、その結果を補足的に「到」なんだな。とリクツが着く。
2)「吃饱」も、「吃」して、その結果を補足的に「饱」なんだと、リクツが着く。
★ただし、補足的に「饱」で「吃」が主眼なら、その日本語訳は「私は食べた」が主眼になるハズだが、そうはならない。「お腹いっぱいです」が主眼です。
 部分的に切り取れば、リクツは付くのだが、全体的に日本語で考えるとリクツが着かなくなる。
1)「买到」の日本語は、「買いました。」 前の動作で表現してる。
2)「吃饱」の日本語は、「お腹いっぱい。」 後ろの結果(補足説明)で表現してる。 
 根本的に、日本語に問題が有るのではなかろうか?中国語は、動作+補足の構成を 一貫して踏襲している。法則的に考えると、中国語の方がしっかり法則を守っている。
逆に日本語のほうが、いい加減。前だけ言ったり、後だけ言ったり、時にはちゃんと両方言ったり。。

 中国語学習するようになってから、中国語の文法の統一性の無さを嘆きながらブログを書いてきたんですが、実は、逆に、日本語に問題が有るような気がしてきた。
吃饱了。买到了。
日本語は、動作だけの表現で、結果を含めていたり、結果だけの表現で、動作を含めていたりする。中国語は、動作+補語の形で一定しいてどちらか省略というのは基本的に無い。日本語訳すると、主眼は動作であったり、補語(結果)であったりするのは、当然である。日本語が動作だけで表現したり、補語(結果)だけで表現したりバラバラなんですから。

 どうも中国語では、「動作+その動作の結果」と、動作と結果を区別しているので、両方言わなければならない。日本語のように、当然解ることだから動作は省略とか、結果は省略とかは無い。
(と言いたいのだが、実際のところ日常会話では結構省略されてしゃべられておりますが。。。)吃饱了は、饱了だけ言う事は多いです。別の例では、飲みに行って、Aさんが毎回するいつもの話を始めると、「又、始まった。」という意味で、まわりの人間は、「起来了、起来了。」と言う。本来「讲起来了。」と言うべきところのハズ。

 話が他の方向へ行きそうなので、話を戻します。
一般に補語と言われてるモノは、補語の役割なんかしてないし、逆に主眼だ!というのが、私の持論です。私は、補語と言うものを全部、この持論で通そうとしてたが、そうじゃない事が解りました。
「买到」は、「买:買った」という動作が主眼であり、「到:手に入れた」という結果が補足として有る。ちゃんと補語の役割をしてます。私の持論は間違いだったという事です。  う~ん。。。なんと言えば良いのか? 一般的な補語の解説、その構造は「動作+その動作の結果の補足説明」が成り立つ。その通りに全て成り立つ。どこに問題が有ったのか?日本語に訳したことに問題が有った。
 日本語の「買った」は、「買う」という動作だけで表現されてる。その結果である「手に入れた」を「買った」んだから「手に入れた」に決まってるジャン!という事で、イチイチその結果を言わない。
 一方、日本語の「お腹いっぱい」は、「お腹いっぱい」という結果だけで表現されてる。その動作である「食べて」を、「お腹いっぱい」なんだから「食べた」に決まってるジャン!という事で、イチイチ動作は言わない。
 これらが原因して、中国語の結果補語を日本語に訳すと、動作が主眼と取れたり、結果が主眼と取れたりして、最後は「一体どっちが主眼なんだ???」という状況になる。この問題の原因は、中国語が「動作」と「結果」を分けて考えて表現するのに対し、日本語は「動作」だけで表現して「結果」を内包していたり、「結果」だけで表現して「動作」を内包していたり、或いは「読み終える」とかの様にどちらかを省略することなく「動作」と「結果」を両方言ってみたりする。結果補語フレーズを日本語に訳すと、前が主眼であったり、後ろが主眼であったり、あっちこっちするのは、全て、日本語のせいです。もしも仮に日本語が中国語のように「動作」と「結果」を分けて考えて表現する方式を取っていたとしたら、このような疑問は一切発生しない。
 私のもうひとつの主張は、結果補語は連述文であるという事です。連述文の定義は「前か後のどちらかが主眼で、他はカザリ。」です。この主張は、今のところ間違って無さそうだ。「前か後のどちらかが主眼」というのは、曖昧で定義になってないような気がしていたが、このような曖昧な定義付けをするのは、致し方の無い事だと今は思う。

 弁解に聞こえるかも知れないが、「補語は連述文である。」という私のもう一つの持論は、今でも正しいと思ってます。連述文の定義は「前か後のどちらかが主眼。他はカザリ。」です。
 

「吃饱?なんでイチイチ「吃」と言わないとイケないの?腹いっぱいなんでしょ?食べたに決まってるジャン。」日本語からするとなんでイチイチその動作を言う必要があるの?と感じる部分を、中国語は、徹底して動作+結果の構成を守っている。私個人の考えですが、多分、中国語は、「てにをは」が無いし、動詞の時制変化も無い。単なる単語の羅列です。この辺が関係してるんじゃないかなあ。。。

仮に日本語を「てにをは」無し、動詞の時制変化も無し。の条件で、しゃべるとしたら、自然にイチイチ動作を付け足すようになるのではなかろうか???想像です。

短いですが、知恵熱が出てきたので、今日終わります。


付け足します。

日本語の「私は、北京に住んでます。」
我住北京。で良さそうに思います。ダメなんです。住と言う動作に結果を付け加えないと中国語ではダメなんです。
我住在北京。じゃないと日本語の「私は、北京に住んでます。」は、言えてないのです。

我送给你礼物。これも同じ類です。送ったんだから、あげたに決まってるジャンじゃないのです。

以上



 

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