私は、プレバトという番組の俳句が好きです。575という制限の中で自分の気持ちを表現する。詩のようなもんです。意見とか主張とかそんな類ではないのですね。気持ちをただ表現するだけです。ヒザ神 村上というのが、先生に反抗した。~は というところは私が残したかったところだから悪くないという主張。先生は怒って少し顔が赤かった。村上は反抗して正解です。もはや生徒が反抗してるのではなく、先生からしたら商売敵です。村上はすでに俳句の本を出版してだいぶ売れてるらしいので、先生と生徒は逆転してます。先生は村上を消そうとしたのではなかろうか?どんな俳句だったか忘れましたが、なかなかいい俳句だったと記憶してます。梅沢さんが また面白い。永世名人の梅沢さんなら解りますよね?と振られた時の、いやっ、私急に言われても。。。と困っている姿が最高。
今回、过 について書きます。この过というコトバというか単語というか文字ですが、結構 難解です。この 过 というコトバに初めてふれたのはどんなフレーズだっただろう?你过来。これが右も左も解らない中国語圏に放り出された私が、一番早く覚えたフレーズだったかも知れない。「来い。」と言ってる。何の問題も無い。来いと言ってるから行く。しばらく聞いてると你来!とか 来!だけとか、いろんなパターンを頻繁に聞くようになる。この过来の过って何だろう?と思うようになる。你来!で良いじゃん。なんで过が要るの?中国語だけの世界で生活し始めた頃の疑問なのですが、特に中国語をおぼえる気も一切無いし、適当にながしてました。だいたい过という字自体知らない。过来は丁寧な言い方なのだろうと信じてました。ずっとそのイメージで聞いてましたが、どうも違うようです。今でもこの使い分けは私解りません。似たようなので过去というのがあります。この过には単に行くのではなく、通過して行くイメージが私にはあります。いずれも学習する気もなくただ単に経験的にそうではないかなあ?と思った部分が100%ですので、信用してはならない情報です。学習を始めたが、このあたり今もハッキリしません。
この他に良く出会うフレーズで 你去过北京吗?とかがありました。会話では会話の流れで、今どこの話題で話しているかは明白なわけで、すべて省略して 去过吗? と聞かれるパターンが一番多かったです。「行ったことある?」なのですが これは去とかの動詞の直後に位置するので区別しやすかったです。多分、発音は近いが字が違うのだろうと推測してました。学習を始めて同じ発音で同じ字だということが今は解りました。ただ用法が違うようです。動詞+过で「~したことがある。」という事だけは、学習する気の無い私でも押さえてました。学習している私が調べるとアスペクト助詞と解説している本が結構多い。一方中国語には助詞が無いと断言してるブログもある。そのまんま聞いてる私は「中国語には助詞は無いけど、アスペクト助詞はあるし、語気助詞もある。」ということになる?助詞と~助詞なるものは別物なのだろうか?もし別物なら別物らしい名前をつけて欲しい。中国語の文法とはどうなってるのだろうか??現状私が推測できるのは、日本語の助詞 ~は、~が とか一般に「て、に、を、は」に当たる助詞は無い。無いが、中国語の世界での助詞は有る。アスペクト助詞とか語気助詞とかである。という推測です。これはたぶん当たってると思う。
学習を始めて、みっつ目に出会う 过 は方向補語なる名前のついた 过 でした。ここで出るのが「補語とは、述語となる動詞や形容詞の後に置いて、述語の表す動作行為の結果や状況を補足説明をする成分を補語と言う。」という、なんか法律の勉強でもしてるのだろうかと思わせるようなお決まりフレーズ。日本で売られてる中国語の文法書にはほとんどこのフレーズに似たのが書かれてます。こんなんで解るわけないと私は思う。根本的にこのお経のように繰り返し書かれてるフレーズには間違いがある。私見では、補語は補足説明する成分ではない。主眼である。
过 について集中的にまとめられた記事が載ってる文法書に出会ったことが無い。なぜだろう?アスペクトであるとか、通り過ぎるの過ぎるのような解説がある部分、方向補語として書かれてる部分、分けて解説してある。多分、分けて解説した方が解りやすいのであろう。しかし分けて書いてあるがゆえに、頭の悪い私などはいったいどの 过 なのだろうと考えてしまうのである。
もうひとつ、过と 够です。発音が似てるので私はずっと同じだと誤解して、いったいどうなってるのか?と混乱の渦に巻き込まれてました。発音も字も違うという事が学習によって解りました。guò とgǒuです。有么有去过?の过と够不够?の够です。納得できないことばかりですが、guò とgǒuの件は納得しました。
疲れたな。終わります。
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